以下の記事は長年、専門家として音楽、歌の世界で仕事してきた経験と知識に基づくものです。個人的見解ですから私に批判的な人は読むことを遠慮してください。

 

5年前に歌った「Begin」の各人のパートと今回の3人の「Begin」の動画を重ねてある動画がずいぶん話題だとある人に教えられて、観てみた。

「5年前とジェジュンの歌い方が全く同じなんですが、こういうことって誰にでも出来ることなんですか?」

 

結論から言えば誰にでも出来ることではない。それが証拠に他の二人のメンバーは自分のパートで声が二つ聴こえる。

ジェジュンだけが完全に一つの声しか聴こえないのだ。

 

この事象と理由は私達専門家から見れば至極当然であって、何ら不思議なことでもなんでもない。ジェジュンだけは、この先十年経っても同じ声で歌うことが出来るだろう。

 

歌手の力量を図るのに一番簡単な方法は、デビュー曲を当時のオリジナルキーで歌えるかどうかだ。

多くの歌手の中でデビューから何十年経ってもかつての自分のヒット曲をオリジナルキーで歌える人は少ない。酷い人になれば、デビューから数年、又はその曲がヒットしてから数年でその頃のキーポジションで歌えなくなる。いくつになっても当時の歌声を歌手に求めるという経験は誰にでも心当たりのあることではないだろうか。

 

その曲がヒットしたときの歌声は聴衆の耳の中に何度も擦り込まれていて完全に記憶となって残っている。何十年経とうが、その歌手がその曲を歌う限り、当時の歌声を聴衆は期待するのだ。しかしその期待に応えられる歌手は残念なことに僅かしかいない。その時、私達は少なからず落胆する。「仕方がない、歌手だって年を取るのだから」「ああ、ここでもう少し高音が伸びたら…」「ああ、あの時はもっと力強い歌声だった…」etc.etc.

 

 

そうやって聴衆は、記憶の中にある歌声を無意識に補充しながら現在のその歌手の歌を聴く。

多くの歌手は長年の間に歌声が老化し、キーポジションが下がり、高音も低音も出なくなる。

失った声域は、キーを下げることで補い、衰えた声量は、表現力という別のツールで養おうとする。しかしどんなに補おうと、聴衆をその当時と同じレベルで満足させることはできない。

 

しかしその中に僅かではあるが、何十年経っても歌声を保ち続け、キーポジションの変わらない歌手もいる。

中年以降になっても美声を保ち、声量も衰えず、デビュー曲もヒット曲も聴衆を当時と同じように満足させ、当時の感動を蘇らせる。その上、長年の経験によって表現力は高まり、新たな世界へと進化する。

そんな歌手もいる。

 

この違いは何なのだろうか。

 

歌を構成するものの大きな柱は「声」と「表現力」である。

この2つの要素が上手く噛み合わなければ、多くの聴衆の心を捉えることはできない。

 

多くの聴衆が先ず耳を奪われるのは、その歌手の持って生まれた声だ。

声は歌の大きな要素を占める。

人間で言えば、外見に当たる部分。

いや応なしに目に入ってくる外観によって、多くの人はその人物の第一印象を持つ。

それと同じように「歌声」は、歌手にとっての容姿と同じだ。

たとえ外見が映らなくても、「歌声」が音声に流れることによって、多くの聴衆は歌手のイメージを作り印象を自分の中に作っていく。

この外観が魅力的に越したことはない。

先ず多くの聴衆は、この外観「声」によって第一の評価を自分の中に作る。

次にその声によって歌われる音楽を聴く。

曲の音楽性、音楽と共に流れる歌声。全体的な印象。

そういう二次的な要素によって曲の評価を自分の中に作っていく。

「表現力」や「音楽性」がものを言うのは、この段階になる。

 

特別なファンでない限り、多くの一般的な聴衆というものは、その歌手の持つ「声」に魅了されていく。

それほどに歌手にとって「声」は大きな要素であり、最大の武器なのだ。

 

持って生まれた「声」の魅力を十分発揮させるのは、その声を支える「発声」にある。

裏返して言うなら、発声を変えることによって「声」が変わることは明らかなことだ。

それぐらい「声」と「発声」には緊密な関係が成り立つ。

長い時間歌い続ける歌手にとって、どのような発声をするかは歌手生命にも関わる大きな要素だ。

歌手とはじめとする「声」を職業にする人達の「ポリーブ」や「結節」「咽頭がん」に象徴される声帯関連のトラブルは、長年の悪い発声方法や声帯管理、咽頭管理を怠った産物であると考えるのは、私達専門家の間では常識である。

 

歌手というのは、スポーツの選手と同じぐらいの自己管理と摂生を要求される職業なのだ。

鍛錬を怠れば、筋肉が衰え歌えなくなる。歌わない時間が多ければ、声帯反応も筋肉反応も悪くなりベストな歌声を維持することはできない。ブランクが長ければ長いほど、元の状態に戻すのには多くの時間を要することになる。肉体や声帯の老化を如何に食い止めながら歌声を維持していくかは、スポーツ選手が肉体の老化をどれだけ遅らせるかによって現役寿命が伸びるのとよく似ている。

これらは、私達聴衆よりも何より歌手本人が一番感じることに違いない。

 

多くのスポーツ選手が少しでも長く現役を続ける為に肉体を自己管理し、生活を摂生する。そして常に自分のフォームをチェックし、基礎体力の鍛錬を怠らない。

例えばランニングや柔軟体操は、どんなスポーツの種目においても必要とされる基礎力であり、基礎体力なのだ。この部分が土台となって、その上に各種のスポーツが花開いていく。

 

それと同じように、歌手にとっての基礎体力は「発声」に尽きる。

どんなに表現力に優れていようと、どんなに音楽性を持っていようと、基礎である「発声」がおろそかでは、どんな音楽も花開かない。どんなに体力があっても、声帯の体力である「発声」の力が落ちている歌手は、やがて歌うことが出来なくなる。

 

だからこそ、歌手はボイストレーニングを怠らない。そのやり方は様々であってもボイストレーニングをおろそかにする歌手はやがて歌えなくなる。これは真理なのだ。

 

そしてICHIROやダルビッシュ、また羽生や錦織など、どんな分野の一流選手にも共通される大きな要素は、競技フォームの確立である。フォームの美しさもさることながら、確実な成績や、活躍の裏に確実に身につけた競技フォームとたゆまない基礎体力の蓄積とフォームの点検、改良によって進化し続け、確実な競技スタイルを身につけているのは誰もが知ることだ。

 

「高音部の抜けるような声」を出すタイミングは、野球選手がホームランを打つタイミングに似ている。

肉体が声を出す為のフォームのタイミングと息の力によって遠くへ声を飛ばすブレスのタイミングが合わさった時、伸びのある遠くまで抜ける高音を発することができる。そのタイミングを身につけるために野球選手が何十回も何百回も素振りをし、無数の打席の中でたった1本のホームランを打つのと同じように、歌手は抜けるような歌声を身につける為に何十回、何百回も発声の練習をしなかればならない、と言われている。それほどに歌手にとって「発声」は命綱であり、「発声」がきちんと身についている歌手はどんな歌を歌っても揺らぐことはない。

ここにジェジュンが昨年一年ROCKのステージを踏み続けても全く声が揺るがなかった理由がある。

 

ジェジュンが「Begin」から発声を変えようとしたのは有名な話だ。

それまでの彼の歌声、特にデビューして韓国でのみ活動していた1年の歌声は、現在の彼の歌声とは似ても似つかない。

持って生まれた声は悪声ではなかった。しかし美声なのかと言われれば取り立てて美声というほどのものでもない。彼が地声で歌っていた1年。その歌声は聴衆が魅了されるような美声ではなかったのだ。しかし彼は日本へ来て、J-POPを歌う中で本来の地声ではなく「細い声」を要求された。彼がリードボーカルからメインボーカルへと初めて舵を切ったのは「Begin」だ。

この曲を歌うにあたり彼は多くのことを要求されたに違いない。

「それまで声のだし方がよくわらなかったが、この歌で声のだし方が何となくわかったような気がした」と彼は後に話している。

 

「Begin」は、日本語の特徴的な「あ」「え」「お」行の母音の語尾を多用した歌詞を歌うことになる。その為に柔らかく伸びやかな声を要求された筈だ。そしてこれらの母音は、いや応なしに彼の咽頭の奧を大きく広げることになった。正しい日本語の発音を要求される中で、確実にそれを実現しようと取り組んだ結果、彼は喉の奧を大きく開けて歌うことを覚えていく。

「Begin」以降の歌においてもメインボーカルを取る中で、伸びのある高音部を歌い続けて行くためには、地声の発声を頭声発声に変えなければ歌い続けることが出来ないことを自覚したはずだ。

 

「細い声を要求されて何度も何度も練習した。そしてとてもそれは苦しかった」と彼は話している。

自分の努力している姿を見せなければ、努力しているということも決して話さない彼が、「苦しかった。大変だった」と話すほど、発声を根本から変える練習は並大抵のことではなく、私達専門家も何年もかかって身につけるテクニックだ。

そのテクニックを、活動をしながら短期間で身につける裏に彼がどれほどの苦労をしたのか、血の滲むような努力をしたのかは、私達のように歌手としての訓練を受けたものになら容易に理解することができる。

そうやって身につけた確固たる発声の基礎力が現在の彼の歌手として活動を支える。

 

昨年、3年ぶりに日本のステージで歌ったアリーナでの歌声は、確立された発声を身につけた歌手でも長く歌うことから遠ざかれば、これほどに歌う体力も声量も落ちるのかと思うほどに、東方神起時代の歌声からは程遠いものがあった。

あれほどに歌えた彼であっても3年のブランクは短時間に取り戻せるものではなく、多くの曲において発声ポジションが定まらない歌であったのは否めない。その部分を彼は「歌唱力」と「表現力」でカバーしていた。しかしあれだけの歌声を持ち、28歳という年齢を考えたとき、歌えない環境というものが歌手に与える影響の大きさを改めて知ることにもなった。

そしてそれは誰よりも彼自身が一番感じたに違いないのだ。

 

それからの数ヶ月間で彼は見事に歌手としての体力を回復させた。ROCKというハードな発声を要求されるジャンルに挑戦しても伸びやかな歌声を失わず、声帯を傷つけることなく数々のステージをこなすことが出来たのは、紛れも無く頭声発声という武器を身につけた歌手であるからにほかならない。

何種類もの声色を持ち、伸びやかな高音と確実に聞き取れる低音を歌えるのは、頭声発声の歌手の特徴だ。

 

そんな彼が5年前の歌を今も全く同じキーポジションと発声ポジションで歌うことが出来るのは当たり前のことなのである。

そしてハッキリ言えるのは、あの5人の中で頭声発声をしているのはジェジュンだけであり、彼だけが何年経っても当時の歌を同じように歌いきることができるだろう。

 

「歌がうまいっていうのは声がキレイっていうのとは違うんだぜ」

この笹原の発言の裏には、暗に「声がキレイ=ジェジュン」「歌が上手い=ジュンス」という発言者の意図を読み取ることができる。

 

しかし持って生まれた美声を磨き、確固たる発声に裏打ちされた美声は、多くの聴衆の心を捉えて離さないだろう。

もし、東方神起のメインボーカルがジェジュンの声でなかったら、あれほど日本中に歌声が広がることはなかったはずだ。

正確な日本語の発音と伸びやかな美声があったからこそ、多くの日本人の耳の中に今も記憶として残るのである。

 

彼の美声が単に美声だけでなく、歌手としての表現力も音楽性も兼ね備えたものであるということは、「化粧」の歌唱によって広く認識されていることである。そして長年、歌の仕事をし、多くの歌手が声を失っていく現状を見てきた私が言えることは、今後も長く歌い続けることができるのは彼だけだと言えるだろう。

 

歌手が歌い続けられるかどうか。

その答えは、いずれ明らかになる。

 

誰が最後まで歌声を維持し、歌い続けられるかは時間が証明するのだ。

 

その時、誰もが知ることになる。

歌手にとって「発声」が如何に大事な基礎力かということを。

なぜ、韓国では演歌歌手以外、歌い続けることが難しいのかということを。

 

Kuko

 

 

今まで私はどんなに尋ねられてもジュンスの歌について批評することを避けてきた。

それは、専門家である私が書けば、それは単に「ファンとしての意見」ではなくなると指摘されてきたからだ。

「「アジアNo.1の歌手」というレッテルと共に韓国で高評価されるジュンスの記事を読みながらジェジュンファンは、ジェジュンの歌に自信を持つことが出来なかった。ジェジュンの歌の評価についての記事が余りにもなかったから。でもkukoさんの記事によって、ジェジュンファンは彼の歌に自信を取り戻すことができた。そのkukoさんが専門家としてジュンスの歌についてどう考えているのか教えて欲しい」そう何度も何人もの方から聞かれても記事にすることを避けてきた。

しかしこれほどにジェジュンのネガティブキャンペーンが続けば、それほどに高評価されるジュンスの歌が本当にそれほどのものなのか、専門家として冷静に判断したくなる。

日本において事務所のゴリ押しで実力もない歌手を売り出すために批評家を雇って記事に出すことは一般的にも知られた方法だが、同じ事務所の同じグループにあって、これほどの高評価をずっと与え続けるジュンスの歌をじっくりと聞いて、その評価が本当に正しいものなのか判断してみたくなった。

 

私が記事に書いたところで多くのシアペンは、アンチというレッテルを既に私に貼っているのだから構わないだろう。

自分達が評価するジュンスを笹原やファンカフェと共に守り続けばいい。一介の私ごとき一般ファンの評価など、事務所や業界人に守られたジュンスには取るに足らないことであり評価はビクともしないだろう。

私がジュンスの歌をどう評価してもスルーすればいいのだ。

 

近い将来に書くかもしれないということを予告しておこうと思う。そしてその気にさせたのは紛れもなく笹原のひと言だ。