明日…といって、もう今日ですね。
大阪城ホールのチケット抽選。地元大阪に彼がコンサートで来るのは、実に3年ぶり。
本当に彼だけを応援している人に当たることを祈って…
しばらくブログを書きませんでした。
ブログを書く、という行為に関して、いろいろ考えることがあって、これからもランダムにしか書くことはないと思います。
ここから先の記事は、私自身への自戒を込めて… 決して私は、このような気持ちを持ったことはありませんが、最近、とてもアクセスが多いことに対して、自分を勘違いしたくないという自戒を込めて書きたいと思います。
ある人のブログを読んだ。
その人にとってジェジュンは特別な存在であり、彼と特別な繋がりがあるように書かれていた。
その繋がりは、彼女の思い込みによるもので、彼女の独りよがりなのかもしれない。
それでも彼女にとっては、その繋がりは確信であり、決して妄想などではなく、それが如何に特別なことであるか書き綴ってあった。ブログに書くということは、多くの人に、自分は、「彼に選ばれた特別なファンなのだ」と知らせたいのだろうか。それまで好感を持って読んでいたそのブログは、その記事を読んだ途端、私の中で酷く色褪せたものに変わってしまった。
彼女もまた、「特別な存在」になりたい人だったのか…
ブログを書くことでファンの中で特別な存在になり、彼にとって特別な存在になろうとする人がいる。
ブログの世界に入って3年。私の正直な感想だ。
誰もが最初は、ブログを書き始める時、彼への思いを書き綴る場所が欲しいと思うだけだろう。
けれども、ブログを公開すれば、必ず誰かが読んでいる。
自分の知らない場所で、多くの人が読んでいるかもしれない。
ブログの世界で知ったファン社会は、特殊な社会だった。
SNSでもネットでも、自分の回りを構築する世界は、彼のファンばかりだ。
そんな世界にいると、それが当たり前で、彼だけがすべての世界のように錯覚する。
けれども、実際には、彼は日本で今、知名度は低い。
かつて、東方神起にいたメンバーと言えば、わかる人もいる。
それでも3年以上の長い不在は、多くの人に彼の存在を忘れさせている。
それが、現実の日本社会だ。
私は、彼以外のファンになったことはなく、彼のファン社会以外を全く知らない。
それでも、この状態が一種異様なのはわかる。
彼が何をしているのか、どこにいるのか、プライベートを追いかける。
マスコミへの露出も何もない日本では、遠く離れた韓国にいる彼の動向を探ることに熱心になる。
少しでも情報があれば、それだけが全てだ。
彼が、普通に日本の事務所を契約をしていたなら、こんなに彼を追いかけ回すのだろうか、と思うことがある。それとも、これがファン社会の常識なのだろうか。
取るに足らない小さなできごとでも、それが記事になる毎日だ。
一番、理解出来ないのは、多くの人が彼と知り合いになり、個人的に親しくなりたいと思っていることだ。
普通のファンではなく、特別なファンになりたいと思っている。
彼と顔見知りになりたい。彼の親族や彼の友人、知人とコンタクトを取り、自分だけは特別なファンになろうとする。
まるで彼の親族や知人、友人と顔見知りになること、懇意になることがイコール彼と知り合いになるかのように… そして、ブログを展開し、多くのファンの中で特別な存在になろうとする心。
そういう情報や、そういう人を見るたびに私の中で違和感を覚えてきた。
今回、読んだブログの管理人の心の中にそういう感情が見えて、何だか悲しかった。
韓国ファンに聞いたことがある。
「ジェジュンペンは仲良くなれない。それは、みんなが自分だけは、特別な存在になりたいと思うから。それぐらい彼を好きだから」
ファンは、彼の特別な存在になれるのだろうか…
私には、もと宝塚の男役スターだった友人がいる。
彼女とは、幼馴染でもなければ、学生時代の友人でもない。
彼女と知り合った時、私は音大生で、彼女は、すでに宝塚の舞台を踏んでいたし、その頃、放送されていたテレビにも出演するような新人スターだった。
彼女とは、よく彼女の公休日に一緒に映画を観たり、食事したり、旅行をしたりした。
彼女とつきあい始めてわかったことがある。
それは、ファンは決して友人にも知人にもなれないということだった。
彼女と知り合った時、幸いにも私は、彼女のファンではなかった。
だから、彼女と友人になったのかもしれない。
彼女は、私に20歳代の普通の友人関係を求めた。
いつも彼女の回りには多くのファンが取り巻いていて、出待ち入り待ちをしていた。
宝塚のファンとスターは、多くが密接につながっていて、それは、どこか韓国のファン社会ととても似ている。公演中は、毎日、食事の差し入れをする。出待ち入り待ちは当たり前だ。非公式のファンクラブがあり、ファンを管轄統制する。
彼女が何かを要求すれば、何でもファンから与えられる社会だ。
そんな環境の中で、彼女が一番求めていたのは、普通の友人としてのつきあいだった。
舞台を下りれば、普通のごく常識的な彼女だった。
そんな彼女は、やはりファンとのつきあいに一線を引いていた。
どんなに熱心に彼女のお世話をし、どんなに顔見知りになっても、決して彼女は、ファンとは友人にも知人にもならなかった。
「ファンは友人には決してなれないし、ならない」そう言った彼女のことばを、私は、ジェジュンのファン社会に入って思い出した。
彼はファンと距離を置くタイプの人間だ。
デビューしたての頃は、ファンとのつきあい方を知らなくて、いろいろあったと聞いたことがある。
けれども日本活動を始めた頃から、彼は、ファンと一定の距離を置くようになった。
彼にとって、ファンは不可欠のものであり、彼ほどファンを大切にする人も少ないだろう。
けれどもそれは決して、特定のファンに対してその心を見せることはない。
いくつもあるファンサイトに対しての対応は、どの国のサイトに対しても平等で冷静だ。
誰か特定のファンに対して、特別なつきあいをすることもない。
相手がどんな地位にいる人間であっても、「ファン」という括りの中で、彼の対応は、平等でしかない。
そんな彼を見るにつけ、私は、彼女の言った「ファンは決して友人にはなれない」ということばを思い出す。
ブログには、ただ自分の思いを書き綴るだけだ。
それは、誰が読んでいようと読んでいまいと構わない。
いつも思うこと。
それは、単なるファンでありたいと思う心。
ファンの存在は彼にとって不可欠であっても、彼の活動に実質何の力にもなれない。
かつて、JYJのラッピング広告車を走らせた時も、彼だけの地下鉄広告を出した時も、全く日本活動の出来ない彼に何か出来ることはないだろうかと思って実行した。
(私がCjesに対する印象を語るとき、地下鉄の広告交渉の経験が大きい。実際に交渉しなければわからない事はたくさんある)そして、わかったことは、結局何の力にもなれないという事だった。
横アリでソロコンをし、FMに出演し、横スタや城ホールでコンサートを開くのは、紛れも無く彼自身の力によるものだ。フルアルバムを出したのも彼自身の力であって、そこにファンの入り込む余地はない。彼の地位も名声も、彼自身が自分の力で築いたものに他ならない。
ファンとして出来ることは限られている。
ましてや、韓国方式のサポートを踏襲する考えを持たない私に出来ることは限られている。
普通のファンとして、彼を応援する。
そんな当たり前のことを忘れないこと。
それが、私自身、一番ファンとして自分に求めていること。
S氏が強烈に批判するファンサイトのあり方は、それが日本の芸能人とファンとのあり方から逸脱しているからだろう。日本には、日本のルールや慣習があり、韓国方式をそのまま踏襲するあり方を痛烈に批判するものなのだろう。彼の活動が正常なものになれば、ネットを徘徊しない多くの一般ファンが常識的な普通のファン社会を構築するのだろう。
そうなれば、私のブログも必要がなくなる。
そんな環境になる為の地ならしをS氏はしようとしているのかもしれない。このブログを閉じて、普通のスタイルの応援が出来る日は、いつなのだろう… そんなことを考えながら、いくつかのブログを読んだ。
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