ジェジュンオンリーを批判する立場のシアファンは閲覧を禁止します。
一人の専門家が、シア・ジュンスの歌をどう聞いたのか、客観的に冷静に読みたいと思う人だけに閲覧を許可します。またこの記事は、むやみにシア・ジュンスという歌手を批判することを目的に書いたものではないということだけは、専門家の立場としてひと言付け加えておきます。
この記事を書くに当たって、何人かから真剣に心配された(笑)
確かにジュンスが第1集のソロアルバムを発売することが発表された時、一人呟いたものをキャプラれ、「●ブログ」なるものまで立ち上げられた前歴がある。 twitterというものは本来、個人の呟きを書くものであって、@マーク付きでもないのに批判されること自体、批判した人間はtwitterの本来の意味を知らないのではないかと思うが、仮に私が@マーク付きでジュンスに呟いたところで、それを批判出来るのはジュンス本人以外にないという当たり前のことも理解出来ず、感情的に走るようなファンを従えているアジアNo.1の歌手の実力を検証し記事にするというのだから、本気で心配されるのかもしれない。
そして、過激だとレッテルを貼られているジェジュンオンリーの私が、どんなに客観的な検証記事をあげても、その真意を読み取ろうとしない悪意のある読み手には、私の音楽家としての警鐘は伝わらないだろう。
しかし、これほどジェジュンにとって酷い状況になれば、専門家として事務所やファンカフェに擁護された歌手の実力を真剣に知りたくなる。
この記事は、ジェジュンオンリーという立場を離れて、長年歌の世界で仕事をし、クラシックだけでなく、宝塚やミュージカルの世界で仕事している人間にアドバイスした経験と歌手寿命と発声の関係について研鑽を積んできた人間が、シア・ジュンスという一人の韓国人歌手の歌を検証した記事です。
なぜに最初にこのようなことを書いたかと言えば、シアという人の歌を検証する中で、JYJというグループ音楽は成り立たないということをハッキリ認識したからです。
検証した曲は以下のもの。
過去の歌声として検証したものは以下の二つ。
●ジュンス14歳(一説には12歳、または10歳という説もありますが、声を聴く限り10歳ではありません)の時の歌唱
https://www.youtube.com/watch?v=NKwkEQbM8EU
●東方神起ジュンス「Rainy night」
https://www.youtube.com/watch?v=G-hteFwANmw
最近の歌声の検証として検証したもの。
●直近のドームで絶賛されたという中島みゆきの「空と君とのあいだに」とYouTubeに上がっていたBEST集
https://www.youtube.com/watch?v=25j8eeQAV9E https://www.youtube.com/watch?v=cPZTyHyhqSU
もちろん5人時代の曲も最近聞く機会があり、ジュンスの声を注意深く聴いた。
私はシアペンではないから、彼の全部の曲を聴くことはできない。ただ彼の歌声の変化と特徴的な部分、そして歌手としての楽曲に対する姿勢について判断するにはこれらの曲で十分だったと思う。
わかりやすく例えるためにも、ジェジュンの歌唱と比べながら検証したいと思う。
先ずハッキリ言えることは、歌手としての声質も楽曲に対する姿勢も、発声の方法も、ジュンスはジェジュンのそれらとは対極にある歌手だということだ。
ジュンスは東方神起のメンバー5人の中で最も韓国人らしい歌手だと言える。即ちK-POPを歌うことに適した声質を持っていると言える。また音楽や楽曲に対する姿勢、テクニック的に言えば、音程の取り方、高音部、低音部の出し方、身体の使い方など、全てにわたって対極にいる歌手だと改めて感じた。
ジュンスの声を聞いて私達専門家が先ず、最初に感じることは、非常に強靭な声帯の持ち主だということだ。韓国人特有の声帯にありがちなハスキーな声質で、声帯自体が非常に強いのだろうと予測出来る。
長く変声期を苦しんだという話は有名だが、変声期が長引く原因の一つに過度の歌唱がある。変声期は男性歌手にとっては最も厄介な問題だ。この時期を経て大きく声が変わってしまう人も少なくない。女性にも変声期は存在するが男性のそれとは比べ物にならない。
ウイーン少年合唱団が変声期を経たメンバーを除外するようにこの時期を経て男性的な声へと変わっていく。その為、変声期の間はなるべく歌わないに越したことはない。声帯専門の咽喉科のドクターなら間違いなくドクターストップをかける時期だ。この時期は、身体の成長に合わせて声帯も大きく成長する。ジュニアスポーツ選手が関節などの成長痛を乗り切る為にしばらく運動を休むのと同じように、この期間の声帯の管理は非常に慎重にやらなくてはならない、というのが専門家の常識だ。しかしジュンスは歌い続けていたと記憶する。ジェジュンや他のメンバーの変声期がいつだったのかは知らないが、デビュー当時、変声期が終わっていなかったのはジュンスだけだったのではないだろうか。
14歳の歌唱と言われるジュンスの声は今と違ってハスキーさが目立たない。高音部も低音部も綺麗な響きをしているのは誰もが感じることだろうと思う。しかしこの時点で既に特徴的な「声を張り上げて歌う」という歌い方を披露している。
次に検証した「Rainy night」
実はこの曲はジュンスのファンでなくても「好き」という人は多い。
私自身も何曲もソロ曲を聞いた中でこの曲が一番印象に残る。
導入部から前半にかけての声質は珍しく細い響きだ。歌詞のことばを一つ一つ明確に伝えるためにあえて細い響きでコントロールして歌っていることが聞いて取れる。しかしサビ部分に入ると、この人の特徴的な「声を張り上げて歌う」という歌い方になる。特に私が感じたのは、高音部の音程の取り方と声の出し方だ。
音程の取り方には大きく二種類に分かれる。
下からしゃくり突きあげるように取っていく方法と上から被せるようにして取っていく方法。
ジュンスの場合は、下からしゃくりあげる方法を取る。特に高音部における音程では顕著にその癖が現れ、彼独特の突き上げるような歌い方の特徴を作り上げる。いわゆる絶唱型というスタイルだ。
これが彼のファンには堪らない魅力の一つなのかもしれない。
絶唱型の歌手に多いのは、自分の声と歌い方に自信を持っていることだ。自信を持つこと自体は悪いことでもなんでもない。歌手は自分の歌に自信を持つべきである。しかし往々にしてこの絶唱型の歌手の批評でよく言われることは、「上手く行けば感動を呼ぶが下手をすれば独りよがりの歌」になりやすいということだ。これは専門家の誰に聞いてもらっても構わない。
歌というものは、歌い手本人は、客観的に自分の歌を判断出来るようで100%判断出来るものではない。自分の耳で確かめながらも歌っている時は少なからず自己陶酔の部分がある。
楽器と違って自分の身体を使って音を奏でている限り、客観的に自分の歌をリアルタイムに聴くことはできない。自分の歌声は、耳を通して主観的な音としてしか存在しない。それでも歌手である限り、どんな感情を込めても多くの歌手は、自分の歌を冷静にどこかで判断しながら歌っている。
「ああ、声の調子が悪い」「ああ、上手く高音が伸びた」「今日は声の調子がいい」「悪い」etc.
しかし思い入れが強すぎる為に自分を見失って歌う場合もある。そういう時は往々にして失敗する。
話題になっている東京ドームでの「らいおんハート」での主旋律を歌ってしまった例などは、ハッキリ言って歌にのめり込みすぎた結果だとしか言えない。
歌手として、歌いながら常に自分の歌をチェック出来る冷静な部分と感情をこめて歌う部分のバランスが取れなければ、それは単に独りよがりで、聴衆は置いてきぼりを食った歌になることもしばしばだということは、ステージを経験したことのある歌い手なら誰しもが思い当たる感覚ではないだろうか。
聴衆というものが存在し、「歌を聴かせる」という行為をしている限り、常に歌い手の歌は、第三者にどう聴こえるのか、言い換えれば、聴衆にどのように聴かせるのか、という部分が非常に大きな要素を占めてくる。
歌というものは、ただ単に正確な音程と楽譜通りに歌えば「上手い」というものでもなければ、綺麗な声で歌ったから「上手い」というものでもないということは、誰しもわかるものである。ジュンスの歌を聴いて最も感じることは、歌手としての自分の気持ちを聴衆に押し付けた歌い方をするタイプだということだった。これが受け入れられる人とそうでない人とに分かれる大きな要因のように感じる。
ジュンスの歌唱の特徴として、ハスキーな声、そして張り上げるような歌唱。
この張り上げるような歌唱については、14歳当時の映像に既に映っている。即ち、ジュンスの特徴的な歌い方というのは、この15年間近く、基本的には変わっていないということの証明になる。
おそらく彼は昔から自分の歌唱法に自信を持っていたのだろう。そして日本語の歌を歌う時も韓国語の歌を歌うときも英語の歌を歌うときも同じ発声ポジションで歌う。昔からその発声方法もポジションも何ら変化はないということなのだろう。
ジェジュンのように発声そのものに自信がなかったのではなく、ジュンスを悩ませたのは変声期による声のコンディションの悪さだけだったのだろう。
また、彼は俗に私達が言うオブリガードという歌唱法をよく披露する。ソロ曲だけではなく、東方神起時代の曲にも多く聴こえる。いわゆるアドリブ歌唱という類のものである。楽譜に明記されていない旋律を自分の感覚に従って歌うもので、デビュー曲「HUG」に既に歌い込まれており、多くのシアファンにとっては、この部分こそが彼の歌の大きな魅力の一つなのだろうと推察する。
歌手という職業は、「表現者」としての職業だと思う。
私達歌手にとって一番要求されることは、如何に楽譜に忠実に歌うかということだ。これが基本中の基本となる。そしてその上で自分の色をつけていくことになる。その色合いは、各人様々だろう。その色合いによって聴衆は、好みを選択する。
ジュンスの歌を検証して感じたことは、歌手として一定の立場から曲を自分の側に引き寄せるタイプの歌手だということだった。
歌手には、曲に自分から寄り添い、その曲の色合いに自分の歌を染め上げるタイプとどのような曲も自分の個性に染め上げるタイプのふた通りがある。
ジュンスの歌はまさに、どのタイプの何語の歌を歌っても、シア・ジュンスという歌手の色に染め上げるタイプだと感じる。これは、声に自信を持つソロ歌手に多い手法であり、彼の歌手としての自覚は、常に「ソロ歌手」という自覚なのだと判断する。
彼の東方神起時代の歌唱は、たとえグループで歌う曲であっても常に「ソロ歌手」としての自覚と自信に溢れた歌唱だったのだろうと推察する。
オブリガード歌唱法を多くの曲に挟み込むのは、与えられたパートに決して満足していなかった現れではなかったのか。本来のオブリガードは、ソロにおける歌手としての力量を聴衆に見せつける為に発展してきた歌唱法であり、オペラアリアに多用される。また、ジャズ歌手のアドリブとも似ているが、どちらにしてもその間は、自分だけに聴衆を惹きつける目的の為に歌われる。
シア・ジュンスになってソロ曲を歌うようになり、ミュージカルの舞台に立つようになって、その歌唱法はさらに顕著になったと感じる。
即ち、彼はさらにソロ歌手としての自分の歌唱法を確立し、ソロ歌手以外の何者でもない存在になろうとしている。それほど自己を確立した歌手にとっては、グループ音楽は、物足りないジャンルの一つでしかないのではないだろうか。
グループ音楽の「調和」「協調性」「没個性」という柱は、ソロ歌手の求める世界とは相反するものであり、その二つを完全に使い分けれる歌手に出会ったことはない。
一人の人間が、相反する世界を求められるとき、それぞれの特徴に合わせて表現を確立出来るほど、切り替えれるものではなく、とくに歌という人間の楽器を使って表現する世界に於いては、非常に困難であると言えるだろう。
だからこそ、あくまでもハーモニーの確立にこだわったジェジュンは、ソロ歌手としての活動を拒んだのだ。それは、ソロ歌手としての世界を知ってしまえば、もうグループ音楽に戻ることが難しいということを知っていたのだと思う。
今回、ジュンスの多数の曲を聴いてJYJのハーモニー音楽が確立出来ない理由と将来においても確立する可能性がないということを感じた。そして、かつて5人があれほどのハーモニーを作り上げたのは、決して彼ら5人の力量でも、彼ら自身が作り上げたのでもなく、ソリストとして十分通用する彼らの個性を徹底的に管理し、まとめ上げたプロデューサーの力量だったのだということを強く感じた。
「メンバーの誰もがソロを歌える実力を持つグループ」
こういうキャッチフレーズで売り出した東方神起のメンバーは「ソロ歌手」としての自覚を持った5人の寄せ集めだったのかもしれない。
5年間の日本活動の中で、ハーモニーを作り上げる力を育てられたと言えるだろう。ソロを歌いたいと逸る人間の気持ちを抑え、うまくまとめあげ、一つのグループ音楽を作り出したのは、紛れも無くプロデューサーの力量だったのだ。だからそのたがが外れた途端、ハーモニーを作ることは出来なくなった。
JYJの3人には、客観的に彼らの音楽を判断する耳もなければ、適切なアドバイスする人間もいなかった。
彼らの個性をまとめあげるプロデューサーがいなければ、グループ音楽を確立することはできない。目指す音楽も音楽への姿勢も対照的な人間がハーモニー音楽を作り出すことは出来ないのだ。
ハーモニー音楽を作ることはソロ歌手としての歌唱法を捨て去ることに繋がる。
グループ音楽を歌うときには、ソロ歌手としての技法を捨て、グループ歌手としての技法に徹しなければならない。それが出来なければグループ音楽を確立することはできない。
お互いの声を聴き合い、音を作り上げていく作業には必ず第三者の的確なアドバイスがあってこそ、客観的な聴衆の立場に立って、自らの音楽を判断することができるのだ。
グループ音楽を作り上げるには、ソロ歌手としての欲求をどれだけ削ぎ落せるかにかかっている。
特にJYJの場合、ソロ活動によって個性が確立された3人が一つの音楽を作り上げるには、3人を納得させるだけの力量を持ったプロデュース力があってこそ、多くの聴衆を納得させる音楽が出来上がる。
偉大なソロ歌手が集まりソロの歌い方で歌っても、決して素晴らしいアンサンブルやコーラスが出来上がらないのと同じように、3人がお互いに自分の音楽をぶつけ合えばJYJとしての音楽が成立すると思っているのは彼らの錯覚でしかない。
ジェジュンは、「お互いにソロ活動をしてきた中でそれぞれの能力が高まりさらにレベルの高いものになったと感じる」という主旨の発言をしたが、今回のドームコンにおいて「3人の音楽がバラバラだった」と感じる聴衆が多かったのは、彼ら3人の感覚と聴衆の求めているものとに距離があるからにほかならず、それを的確に判断し、修正させるアドバイザーの不在が5人時代のハーモニーを期待する聴衆の不満に繋がっているものと感じる。
「アジアNo.1ボーカリスト」と評価するのは一体どこの誰の評価なのか私は知らない。
とかく大きな冠をつけて絶賛する韓国のやり方は、歌手本来の正当な評価を却って貶めることに繋がると感じる。
ジュンスの歌を評価するのに、そんな冠が必要だろうか。
冠をつけたがるのは、マネージメント能力の欠如したCjesの常套手段だ。
正直言って、私が聞く限り、シア・ジュンスという歌手は、自己スタイルを確立した歌手であって、彼に勝る歌手が他にアジアに存在しないと断言出来るほどの力量を感じることはなかった。
これほどに高い評価を受ける要因が何なのか、他の歌手の歌唱と比べた具体的なreview記事でもあれば、一度是非読んでみたいと感じる。但し、それは、事務所の意向のかからない専門家の批評に限りたい。
私が唯一、目にした専門家の批評記事は下記のものだった。
http://blog.livedoor.jp/bookmark22/archives/1916879.html
http://www.hani.co.kr/arti/culture/music/648390.html
http://blog.livedoor.jp/bookmark22/archives/1916879.html
そして叩かれることを覚悟してあえて言うなら、ジュンスの発声法は歌手にとって最も喉に負担をかけた発声法であることだけは明記しておく。
多くの歌手がこの発声法を取るが、この方法は喉の強靭さだけが頼りだ。
どんなに強靭な声帯を持っていても、長年の発声によって声域の幅は縮まる。その兆候として、最初は声全体がハスキーさを増し高音部に陰りを感じる。やがてそれは低音域へと広がり全体にもっとハスキーな声質へと変換していく。地声で歌う歌手の多くが辿る道筋だ。
この発声方法を続けていると、声帯にポリーブや結節という障害を抱えることも少なくはない。
デビューした頃、綺麗な声をしていたのに、十年も経てばハスキーな声に変わっていく歌手は少なくない。そして音域が下がりキーポジションが保てなくなる。
頭声発声をせず、地声で強靭な声で歌う限り、常にこれらの危険と隣り合わせになる。だから長時間、声を使い舞台に立つミュージカル役者や、俳優、そしてオペラ歌手は、頭声発声を訓練して身につける。
頭声発声だけが唯一、声帯を守り、長期に渡って同じ声を保つ方法だからだ。そして身体を使ってブレスの力で発声する。このメカニズムを身につけた歌手だけが長期に歌い続けることが出来るのは、日本で長く歌い続けている歌手を思い出せばわかることではないだろうか。
頭声発声を身につけているジェジュンですら、3年の歌手活動のブランクの影響は大きかったし、長年の喫煙による声帯への影響は計り知れなかった。
だから私は彼の喫煙についてはずっと警鐘を鳴らしてきた。
今、彼がどれぐらい喫煙しているのか、それとも禁煙したのか、確実に知る方法はなくとも、彼の歌声の変化から読み取ることは出来る。
頭声発声をしていても、身体を使って歌うことを忘れてしまえば、ジェジュンですら声を失う危険性はあるのだ。
シア・ジュンスが「アジアNo.1」のボーカリストかどうかは、個人的見解に寄るだろう。彼のようにパンチの聞いたハッキリを自分の色を出して歌う歌手は、韓国で好まれるからだ。しかし韓国と日本では聴衆の好みはハッキリ異なる。
日本で彼の単独の活動が囁かれている中、何の冠もつけずに一人の歌手としての真価を日本の音楽界に問えばいい。それが彼の歌手としての本当の評価に繋がるだろう。
文責 kuko
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