今回、私の関係で映画を観た全ての人が口にした「彼の孤独」

しかし、私は彼の孤独感は不思議と感じなかった。

一番、感じたのは、「ああ、話せるようになったんだ」ということ。

両親のこと、東方神起のメンバーのこと、育ての親のこと、その時々の思い。

そういうもの、全てを彼は消化したんだと思った。

全ては彼の中で過去のものになり、現在進行形ではないこと。

そして、一番感じたのは、彼がもう違うステージにいるのだということだった。

彼は、もう違うステージにいる。

それは、過去の大きな出来事に関わった人達とは、全く違うステージ。

だから、言葉を選びながらでも話せた。

逆に今回、話すことで、すっかり過去のものとして決別できたのかもしれない、と感じた。

だから悲壮感はない。

 

それは、今回の歌「We’re」に一番現れている。

これまで彼はこんなに前向きな歌詞を書いたことはなかった。

いつも現在進行形か過去形。

将来のことについて書いた歌詞は、私の記憶の中にない。

そして、今までのどの曲よりも明るく希望に満ちた歌詞であり、曲想だった。

曲自体が非常に明るく、後半の転調を経て、さらに明るくなっていく。

これほど前向きな音楽を彼が作った記憶がない。

この曲一つを聴いても、彼の中の悲壮感がすっかり消えたのを感じる。

彼は「除隊後、価値観が変わった」と話したが、除隊直後のツアーでは、まだ彼の中に明るさを感じることが出来なかった。

彼の中に明るさを感じたのは、8月のKAVEの発表から。

もうあの時には、日本活動の再開は決まっていたから、彼の中の悲壮感は消えていた。

 

こんなことを書くと韓国ファンには総スカンを食いそうだが、やはり彼の中で明るさを取り戻したのは、私には日本活動の再開が大きく影響していると感じてならない。

日本活動の再開と安定は、そのまま彼の歌手活動の安定に直結している。

どんなに否定されても、彼の歌手活動の本拠地は日本であり、それはこの3年の活動を見ればハッキリわかる。

3年の間に彼が出した韓国アルバムは、「愛謡」の1枚だけ。

さらに遡って2013年以降の韓国ソロ活動からの8年間に出したものは、フルアルバム2枚、ミニアルバム2枚である。(YはIの派生形なので含まず)

それに対し、3年間の日本活動で出したものは、シングル4枚、オリジナルアルバム1枚、カバーアルバム2枚である。

3年間と言っても、コロナ禍の中、ほぼ1年半近く、まともな活動はできていないのだから、圧倒的な数である。

そして東方神起離脱後の除隊までは、彼は自分のことを歌手だとは言わなかった。

彼が歌手だと言って挨拶し出したのは除隊後であり、日活再開後は、歌手、アーティスト、そして最新の肩書きは、シンガーソングライターだ。

即ち、彼は自分のことを単なるミュージシャンでもアーティストでもなく、曲を作るクリエイターであるシンガーソングライターと言っているのである。

 

昨年末に公開された韓国のワークショップコンテンツ「Wonderwall」の中で彼は初めて自分の音楽について語り、さらにその作業工程を公開している。

ミュージシャンにとって、この作業工程を公開するというのは、非常に珍しい。なぜなら、どうやって音楽を作り上げていくのかというのは、企業秘密だからだ。誰も積極的に公開する人はいない。

だが彼は公開している。そして、今回の映画の中でも重要なテーマの一つに楽曲の作り方を公開している。

「Wonderwall」の場合は、彼の編集工程を公開していたが、映画では、作曲工程を公開している。

これで大体、ジェジュンというクリエイターがどのような方法で曲を作り編集していくのか、という部分がわかるのである。それを公開したということは、彼の中で、公開しても誰にも盗まれない、という揺るぎない自信があるからこそであって、そこには、自分の人生からもう音楽がなくなることはない、という確固たる自信でもあると感じる。

 

韓国時代、このブログにもいくつも記事を書いたが、彼は歌手活動が満足に出来なかった。

事務所との軋轢の原因は、日活への根本的考え方の違いであり、それは他のメンバー2人のスタンスとも違い、その溝は埋めることが出来なかった。全てのパワハラと感じられる事象は、その埋められない両者の考えの違いから来ている。

その違いが、結局、彼に歌手活動をさせない、歌う場所を与えない、という環境を作り上げた。

彼の言を借りれば、彼がもし、事務所や他のメンバーと同じスタンス、同じ考え方をしていたなら、そういう事象は起こらなかったかもしれない、ということになる。

しかし、彼は決して自分のスタンスも考えも変えることはなく、日活を自分の力で復活させてからは、日本での歌手活動を仕事の主軸に置き、自分というものを歌手という椅子にしっかり座らせたのだ。

この3年間の実績によって、韓国でも歌手というポジションを作り上げ、それを揺るがないものにしている。

直近では、彼が4年ぶりにドラマに出るかもしれない、という記事が上がっていたが、今の彼は、かつて歌手活動が出来ず、ドラマに次々出演し、歌手なのか、俳優なのかわからない、という状態だった頃の彼とは全く違い、今後、どんなに日韓でドラマに出演しようと、歌手以外の何者でもないということを示している。

それは彼が自分で選んだ道であり、その道を選んだ時から、既にもう過去とはステージが違ってきたのだろう。だから、彼は自分をシンガーソングライターと名乗り、音楽の作業工程を見せることで、さらに映画を観た人達に、自分は音楽人以外の何者でもないということを示しているのだと思う。

そうでなければ、あれほど詳しい工程を見せることはなく、音楽について語ることはないのではないか。

それはインタビューをしたジェハン監督の中にある彼へのイメージも音楽人以外の何者でもない、ということを物語っている。

今回の映画に登場した仕事関係の人達は全て音楽界の人達であり、俳優の彼を語る人達は1人もいない。

即ち、今回の映画は、彼の私生活を辿ると同時に、音楽人ジェジュンというものをクローズアップさせていると感じる。

これが彼が今後の人生においても、決して音楽から離れないことを意味しているのだと考える。

 

今回の映画の製作会社は、彼の日本でのファンクラブを管理している会社であり、ケイダッシュの川村氏の名前が出ていることからも、これが決して韓国主導のものではないことを感じさせる。

それもこの映画を通して、彼が自分の音楽を自由に何の制限もなく語れるものになった大きな要因だと感じる。

 

今回の映画を観て、彼の音楽活動への揺るぎない決意を感じた。

やっと彼は歌手になったのである。