2017年10月26日
テレビ朝日「ドリームフェスティバル」における「化粧」review
今回のreviewを書くにあたり、少しだけ触れておくとするなら、この曲を彼がセトリに加えたことの意味から考えなければならないだろう。
今回のドリームフェスティバルは、まさに歌手ジェジュンが、ソロ歌手として日本において活動することを広く宣言する第一歩ともいうべき出演だった。
そこに彼は、自作アルバム曲の中から選び抜いた曲をセトリとして構成した。
セトリに関しては、後日の記事で総括することにして、ここでは簡単に触れるだけにするが、「化粧」をセトリに加えることによって、彼は、歌手としての日本語力と、その表現力を示したと言える。
「化粧」は、言葉数の非常に多い歌詞で有名で、さらにその歌い手によって、それぞれ独特の世界観を構築する曲として有名だ。
オリジナル「化粧」を聴いた人ならわかると思うが、中島みゆきの歌唱は、この「化粧」においては、非常に評価が困難だ。
なぜなら、中島みゆきは、この曲の後半になれば、必ず感情の昂りと共に泣き声になり、やがてそれは激しくなって、メロディーも言葉も一体何を歌っているのかわからないほど、破綻するのである。
これは、アルバムだけに限らず、ライブなどの演奏場面でも必ずであり、多くの中島みゆきファンは、「化粧は、最後、みゆき自身が泣いてしまって、何を歌っているのかさっぱりわからない」ということになる曲だ。
しかし、その歌詞が現す世界観は、独特のものであり、これほど、その歌い手によって再現される世界が異なるものも少ないだろう。
中島みゆきの歌をカバーする歌手が多いのは、彼女の歌詞によって構築される独特の世界観に惹かれる人が多いためでもある。
「化粧」は、男性歌手が多くカバーしている曲の一つでもあるが、その誰もが、歌詞の内容に比べて、比較的あっさりと歌っている印象だ。
それは、日頃、日本語の世界に居住し、日本語の情念の世界に晒されている人間と、そうでない人間との日本語の言葉から感じ取るイメージ力の違いに起因すると言える。
「化粧」の歌詞は、女の情念ともいうべき執着心を表現したものであるが、日本人であれば、その執着心のドロドロとした情念を感じるがゆえに、深刻にならずあっさりと表現したくなるのだろう。
言葉の重さに耐え切れず、あっさりと歌うことで、返って女の物悲しい感情を表現しようとする人が多い。
しかし、それに対し、ジェジュンは、その執着心を真正面から、逃げることなく表現した。
彼は、物悲しい音色の声を用いることで、この曲全体を「女の悲しみ」で彩った。
さらに
流れるな涙 心でとまれ
流れるな涙 バスが出るまで
この部分において、とくに丁寧にことばを一つずつ、とつとつと歌うことによって音楽の流れを止め、聴衆の心が、その部分に留まり、女の悲しみを十分に感じるように歌った。
音楽が流れていくことを歌詞を丁寧に歌うことで、止めたのである。
即ち、歌い手として女の情念から逃げないと共に、聴衆にも女の情念を真正面から感じ取ることを要求したのである。
これは、情念の強さ、ドロドロしたものをリアルに理解出来る日本人男性には、その勇気が持てない、不可能な歌い方だとも言える。
韓国人の彼であるからこそ、日本人女性の情念の奥に潜む、どうしようもない悲しみを感じ取り、そこから逃げないのであって、日常的に表面的な日本語にとらわれてしまう日本男性には、奥深い感情を感じれば感じるほど、それを正面から表現する勇気が持てないのだ。
彼の「化粧」は、そのまま彼の日本女性に対する価値観にも通じるものと言えるかもしれない。
彼の日本語に対するイメージ、日本に抱く感情。
それらの価値観をすべて凝縮させた感情が、この曲の表現力に反映されているのだと感じる。
それゆえに彼の表現する「化粧」の世界は、日本人歌手の誰にも追随出来ない世界と言える。
今回のドリフェスで、彼がこの曲を多くの自作曲に加えて歌ったことは、この曲が、彼の中で、カバー曲といえども、自作曲と同じぐらい自信を持つ曲であり、自分の歌手としての評価に繋がるものだという自覚にほかならない。
彼のこの曲に対する思い入れの深さは、わざわざ韓国語に翻訳し、WWWのライブで、ロックとは全く系統の違ったこの曲をセトリにいれて、披露したことからもわかる。
それぐらい、彼自身が、この曲にある意味、魅せられてしまったのかもしれない。
彼は、このドリフェスが、ソロ歌手ジェジュンの本格的日本活動の始まりと広く内外に宣言し、その波及効果があることを十分に認識している。
その記念すべき歩みのコンサートの曲にこの曲を加えたのは、彼にとって、この曲が、歌手ジェジュンが一人で歌っていこうと決意する為の力強い後押しとなった曲であり、この曲の彼の歌唱の評価が、そのまま彼自身のソロ歌手への自信に繋がったものであったと自覚しているからにほかならない。
今回、ドリフェスでの彼の「化粧」は、非常に丁寧に言葉を伝える、という点を直視した歌い方だった。
前回横アリでは、ほぼ、ピアノアレンジも含めて、清水翔太バージョンが採用されていたが、今回は、キーボードの白井アキトは、全く新しいアレンジに変えていた。
そのアレンジに載せて歌った彼の「化粧」も清水翔太バージョンとは異なる世界を構築したと言える。
清水翔太バージョンでは、単旋律の非常に澄みきったピアノの音色によって導き出された世界によって、彼自身の歌声も非常に澄み、かつ美しく細い響きを奏でた。即ち、儚げで透明感溢れる世界である。
それに比べ、今回のアレンジは、多重のメロディーによって幅広いアレンジの世界を演出している。即ち、何重にも構成された厚みのあるハーモニーが、彼の歌声を支える世界である。
彼は、今回の「化粧」において、言葉を明確に丁寧に歌い、聴衆が、彼の歌の言葉を追いかけ、理解していくに必要な時間を十分に取った歌い方に徹した。
おそらく会場にいるジェジュンファン以外のほとんどのファンが、この曲を知らない。
そういう聴衆を前にして、歌手が出来ることは、「言葉」というツールを使って、丁寧にその世界を構築することである。
彼は、聴衆が、歌詞の言葉を追いかけながら理解する時間と、イメージを膨らませる時間を十分に取ることで、全く「化粧」を知らない世代にも、その世界を十分にイメージ出来るだけの力を与え、「化粧」の世界を一人の歌手として提示したのだ。
彼の化粧は、どちらかと言えば、テンポが遅く、その為、言葉が非常に明確に浮かび上がる。
メロディーに流されることはほとんどなく、歌手の力量が不足していれば、言葉に対する表現力を露呈してしまう歌い方だと言える。
即ち、きちんと言葉を理解し、その言葉一つ一つに描かれたイメージを音色によって表現することを要求されるテンポとも言える。
それを彼は知った上で、ゆったりとした「化粧」の世界を構築した。
言葉一つ一つが明確に伝わることとゆったりとしたテンポの中で、聴衆は、ことばを追いかけながら、頭の中で、一つの世界を作り上げていくことが出来る。
しかし、それは、反対に、歌手の力量を聴衆が十分に感じ取ることが出来る危険性を与えることにも繋がる。即ち、力量が不足していれば、そのインターバルの長さが、返って音楽を弛緩させ、だらけたつまらない歌になってしまう懸念も十分はらんでいるのだ。
その危険性に真っ向から、彼の歌い方は、勝負に出たということにもなる。
韓国人である彼が、日本語の持つ独特の世界をどこまで表現しきれるのか、さらに、全く情念などとは関係のない若いドライな世代の聴衆に、どこまで共感を得られるのか、それは、歌手ジェジュンとしての大きな賭けだったとも言える。
彼は、丁寧に言葉を伝えることに徹し、なおかつ、非常に透明で綺麗な響きの歌声によって、その世界を再現し、それらを理解しない平成育ちの若い世代にも、日本語の持つ魅力を伝えきったと言えるだろう。
彼の「化粧」が多くの聴衆の涙を誘うのは、彼の日本語曲を歌うときの音色に起因する。
「守ってあげる」もそうだが、彼がこの手のバラード曲を切々と歌う時には、その響きは、非常に繊細でなおかつ、透明感溢れた響きになる。
極力、ブレス音を抑え、混じりけのない、それでいて芯のある綺麗な響きになる。
そうやって、彼は、ブレスをコントロールすることによって、ロックやダンスナンバーという激しい曲を歌う時の声と使い分けているのだ。
「化粧」は、切々とした女性の気持ちを歌い上げるものだが、2013年の歌唱においては、彼自身も涙を流すほど、歌詞の世界に同化した歌唱だった。
それに対し、今回の彼の歌唱は、冷静に歌手として、感情をコントロールした中での歌唱だったと言える。
歌手自身がその世界に入り込むことによって、歌手自身も感情の昂りを感情の吐露という形で流されてしまう歌い方が、中島みゆきの歌い方であるなら、彼は、歌手として感情の昂りに流されずギリギリのところで踏みとどまった、非常に我慢した歌い方をすることによって、返って多くの聴衆の涙を誘うのである。
それだけの歌唱をするには、日本人でも難しい歌詞に書かれた言葉の意味を深く理解し、表現する力が求められる。
彼の日本語に対する言語的センスは、5人時代より抜群のものを見せていた。
決して言葉の邪魔をしない歌い方。
言葉の意味によって、歌声の音色を変えてくるテクニックは、彼の歌手としての実力をそのまま示すものだと言えるだろう。
日本活動が打ち切られて7年。
求めても求めても男から与えられなかった愛の切なさは、求めても求めても手に入れることの出来なかった彼の日本活動への思いに似ている。
理不尽な思いに捉えられても、感情に流されることなく、我慢し続け、遂に手に入れた日本活動の第一歩。
やっと手に入れようとしている日本活動を前にして、彼の緊張が、顔のこわばりに出るほど、彼は、この曲を歌うときに神経を集中させていた。
そして、外国人であっても、決して言葉の間違いは許されないと、自分自身に厳しく課し、ひと言ひと言を大切に紡ぐように歌っていたのが非常に印象的だった。
「化粧」は、彼に似合っている。
彼の世界観を見事に表現した世界であり、歌手ジェジュンの実力の高さをアピールするのに適した一曲だと言える。
彼は、「化粧」を手放さないだろう。
いつか、彼の日本語のカバーアルバムが出ればいい。
彼の歌う「化粧」が、多くの日本人の心に触れ、歌手ジェジュンの最大限の魅力を引き出す。
そして、日本語の美しさを軽視する若い世代の聴衆に、あらためて日本語の美しさを再認識させるだけの力を持つ。
彼の日本語の曲は、彼を韓国人であることを私達に忘れさせ、彼が、日本人であるかのように錯覚させる。
それは、彼だけが持つ、特別な力だとも言える。
これが、どんなに日本語をうまく歌う韓流歌手にも追随出来ない独特の彼の日本語曲の世界なのだ。
彼の歌は、私達、日本人が忘れ去った日本語の美しさを思い出させる。
JPOPを歌う彼に追随出来る韓国の歌手は、いない。
それは、今回の世代間を越えた聴衆の評価が、それを証明している。
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※
彼の絶賛記事が、山のように上がっています。
その様子を見ながら、メディアに出るということは、こういうことなのかと感じました。
8年ぶりの日本での公式な場所での出演は、8年ぶりにジェジュンという歌手が、日本の公の場所に復帰したことを証明したことになります。
今まで、Cjesが隠し続けてきた最大の理由が、これでした。
彼が正式にメジャーな世界に復帰してしまえば、すべてのことを蹴散らしてしまうだけのパワーを持った歌手であることを一番知っているのは、Cjesだったからです。
日本における絶大な影響力を最も恐れたのは、Cjesでした。
日本で正当な評価と活躍の場所を与えられれば、それはやがて韓国においても、同じ場所と地位が与えられる。
それが、物事の流れであることを知っているからです。
5人時代も、韓国でデビューし、トップアイドルに上り詰めた後、日本での活躍がなければ、あれほどの地位と名声を手に入れられたかどうかはわかりません。
それは、韓国と日本の持つ市場の大きさと、国際的は評価の信頼度に通じます。
それを十分認識した上で、韓国に彼を取り戻したのです。
そして、彼から日本を取り上げることで、彼の露出を抑えた。
この7年間は、それにすべてをつぎ込んだとも言えるでしょう。
その努力を、彼はたった一晩、たった50分足らずのステージで、蹴散らしてしまいました。
ある意味、滑稽で爽快な展開です。
そして、わかりきったこと。
ドリフェス後の喧騒を見ながら、そう感じました。
また、ドリフェスの成功と喧騒を見ながら、私は、全く別の次元を見ています。
それについてもまた別記事で。
いつも多くの方に読みに来ていただいて感謝しています。
メッセージをたくさん頂きますが、お返事が出来ず申し訳ありません。
コメント返しもほとんどしないのは、限られた時間を、記事の更新に充てたい為です。
ご理解頂けると嬉しく、さらにコメントを頂けるとやはり嬉しく思います。
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