ライブ会場にジェジュンという歌手の歌声が鳴り響いていた。
圧倒的に歌い込まれた歌声は、9年前の記憶を多くの人に蘇らせるのに十分だったと思う。
今回のライブは、ジェジュンという歌手が、9年前、確かに日本に存在していたのだということをあらためて多くの人に確認させるのに必要なものだった。
ライブの三日前に鳥の刺身でお腹を壊した、という歌手の歌声とは思えなかった。
初日、彼はその言い訳をひと言も言わなかった。言えないほどに集中していたのだと思う。
歌手にとって、下腹に力が入らないのは致命的だ。
それでも彼は、かつての歌声からは考えられないほど十分過ぎる声量と伸びのある美しい響きを披露した。
これは、初日の緊張と力みすぎる癖のある彼にとっては、返って良かったのかもしれない。
力を入れすぎることなく、身体の自然の力に任せて歌うことが出来たのは、体調不良でリラックスせざるを得ない身体の状態が返って彼に良い影響を及ぼしたとも言える。
二日目の歌を聴きながら、やはり初日は、かなり緊張していたのだと思える場面がいくつもあった。
今回、「トークが好き」と言いながらも、無駄なくあっさりと進めていく手法は、やはり完全に日本仕様のコンサートに変わったことを感じさせた。
「Just Another Girl」の出だしから、彼の歌声は、今までのどのコンサートでも聴くことのできなかった完成度を示した。
それは、声の伸びを声量が抜群だったからだ。
今までの彼の来日コンサート。
いつも感じるのは、出だしの声の不調だった。
それは、日程的に韓国から直前に移動してくることの疲労だけではなく、歌声の状態の悪さだった。
明らかな歌いこみ不足を感じた。
それは、普段、歌手として彼が存在出来ないことを意味していた。
コンサートの出だしは、いつも伸びを欠いた歌声だった。音程の悪さや、響きの安定感の無さが、彼が歌手として韓国では生きていないことを感じさせた。そして、コンサートの後半になって必ず、彼は本来の歌声に近いものを取り戻す。
それは、歌うことによって、彼が歌手としての感覚を取り戻すからにほかならなかった。
本番のステージの上で歌手としての感覚を取り戻す。
それほど、彼の普段の生活に歌が存在しないことを示していた。
そして、コンサートが終わるたびにいつも思った。
次、歌えるのは、いつ?
それは、彼自身が一番感じていたことかもしれない。
だから、あれほど泣いたのかもしれなかった。
「All that glitters」も「Run Away」も韓国語の歌だ。
韓国語の3曲は、今までの彼の聞きなれた歌声だった。それでも声の伸びや、響きの点に於いて、今までのコンサートとは比べ物にならなかった。
特に「Run Away」は、それまでの彼の歌声を完全に払拭した新しい歌声を使っている曲だ。
響きを一切消した直線的な歌声は、ジェジュンという歌手のそれまでの持ち駒になかった歌声だったとも言える。
「No.X」の最終曲に収められたこの歌声は、彼の新しい歌声として耳に記憶されるだけでなく、歌手としての可能性の広さをあらためて示した曲とも言えた。
その曲を彼はセトリに選んでいた。
ドリフェスでもTGMでも必ずこの曲を入れてきたのは、ジェジュンという歌手の歌声の幅広さを示すのに適切な曲であるからに違いない。
直線的な歌声を用いたこの曲は、比較的、状態が悪くても安定した響きを保つ。
しかし、この日の「Run Away」は、直線的な響きの透明感に優れていた。さらに歌声が力強かった。
彼の歌声の一つの武器であるもの。女性vocalistのアルトにも似た歌声。その歌声を彼は取り戻していた。
「化粧」に関しては、さらに完成度が高かった。
言葉の処理能力は、彼自身の日本語力に通じるものがある。
4ヶ月に及ぶ日本生活の中で、日常的に日本語を話す状況は、彼に日本語の単語同士を繋ぐ助詞の処理を的確にさせていた。
それは、彼が日常的に日本語で物事を考え、日本語を母語の感覚で身体の中に取り込んでいる状況がわかる。
観客を目の前にしても、一切動じない。
自分の歌の世界に集中出来るだけの見事な歌手力を見せつけた。
今回の化粧を聴いて、彼がこの歌に固執する意味がわかるような気がした。
ジェジュンという歌手は、先ず、その歌声に魅了される人が多い。
日本人好みに作り替えたという歌声は、甘い響き、伸びのある高音など、その歌声は、ジェジュンという歌手の外見になる。
先ず、歌声。
その歌手の持つ外見上の歌声に人は先ず惹かれる。それから、歌唱力、パフォーマンス力など、内面の力ともいうべきものに惹かれていくのが一般的だ。
彼の歌手としての外見上の歌声は、非常に甘く切なく美しい響きを持つ。また、力強く伸びのある歌声だ。
その外見だけでなく、楽曲への理解、表現力、構築力など、歌手としての内面的実力を示すのに、化粧という曲の構成はピッタリだとも言える。
彼の化粧は、他のカバー歌手のそれらとも全く違う面を見せる。
特徴的なのは、「切なさ」
このキーワードを表現するに彼の甘い響きのある歌声はピッタリ適していると言える。
さらに彼の歌は、サビの部分で十分、伸びのある声を表現することで、楽曲のスケールを大きなものに変えている。
今回の化粧に於いては、「語り」の部分と「歌い上げる」部分との対比を顕著にする表現方法を取っている。
それは、彼が日常的に日本に住み、日本語を使うことで、日本語に対する気負いがなくなり、自然と言葉が口から出てくる状態になっていることで、「語り」の部分の処理を、自然に行うことが出来るということを示した。
「化粧」は、歌手ジェジュンえを語る時、決して外すことの出来ない代表曲になるだろう。
「どうして…」「Begin」「明日は来るから」「stand by U」「Loving You」
この五曲に関して、過去の歌を歌ったことへの賛否両論、さらには、5人復活論が起きたのは残念なことだった。なぜなら、彼の9年間の葛藤が「歌った」という表面上のことだけで処理されそうだったからだ。
彼は、この9年間、過去の曲を決して歌おうとしなかった。
2014年のichigoコンサートでJYJとして「Begin」を歌ったのは記憶に新しいが、彼の様子を見れば、自ら望んで歌ったとは、到底思えなかった。それほど、彼の中では、5人時代の曲を歌うことへの抵抗と、ファンの5人の思い出を壊したくない、という強い思いがあったに違いない。
ソロ歌手ジェジュンとして出発するコンサート。
そのコンサートのリクエスト曲に多くの5人時代の曲目を見た時、彼は何を思っただろう。
ソロ歌手として出発するのに、決して5人時代の曲を避けて通れない現実を知ったのではないだろうか。
ジェジュンという歌手が今、存在するその中に、5人時代の曲は、不可欠だった。
5人時代があったからこそ、歌手ジェジュンは、存在しているという現実をあらためて突きつけられることになったのかもしれない。
前だけを見て走って来た今までと、前だけを見てこれからも走っていきたい歌手ジェジュンの気持ちが、過去の歌声を忘れないファンとの思いの温度差を感じた時、彼は過去の歌を歌わなければ、新しいスタートを切れないという現実を知ったのかもしれない。
彼の中で、歌うことへの葛藤がなかったとは思えない。
どんなにファンが望み、ファンが望んだことを全部してあげたいと思っていても、
「歌ってもいいのかな、と思った」
これが、彼の葛藤とホンネだっただろう。
それでも彼は、歌った。
そして、それは、自分のパートだけを歌う、という形のメドレーだった。(「明日は来るから」に関しては例外。この曲に於いて、彼はサビを歌っていない、また、他の曲に於いてもサビに繋がるのに必要なパートに関しては歌っている)
そこに彼の決して超えてはいけないという不文律を見た。
決して他の人のパートは歌わない。
それが、せめてもの彼自身の抵抗であり、こだわりだったと思っている。
初日、彼は明らかに葛藤しながら歌った。
戸惑いの表情も見せた。
多くのファンが泣いているのをステージの上から見たはずだ。
それでも彼の中に、「歌って良かった」という思いは見えなかった。
戸惑いながら、葛藤しながら、迷いながらの歌声だった。
二日目、見事に歌声は修正されていた。
そこには、もう葛藤も迷いも戸惑いもなかった。
自分の過去の持ち歌として、堂々と歌う彼の姿だけがあった。
5人時代の歌を歌ったことには大きな意義がある。
彼は、日本活動が始まってから、一度も過去のグループ名を口にしない。
「以前、ダンスグループにいたんですが…」
そう言って、過去のグループ名も、現在(?)のグループ名も決して口にしない彼を初めて知った人には、彼が過去にどんな活動をしていたのか、記憶に登らないかもしれない。
そんな人達でも日本中を席巻した「どうして…」の歌声は記憶している。
彼の歌声を聴いた人達は、それが、彼だったのか、と記憶を蘇らせるだろう。
そして、過去の持ち歌を歌ったということは、avexとの関係の正常化を意味している。
ケイダッシュという日本の事務所が正式にマネージメントしている歌手ジェジュンは、どの曲を歌おうと、著作権使用料さえ払えば、何の障害もないのだということを内外に示した。
業界の不文律は、ケイダッシュとの正式契約で払拭され、彼は、歌手活動を日本で自由に行える、ということを示したのだ。
ソロ歌手ジェジュンとして、踏み出すコンサートで、過去の曲を歌ったことは、彼の一つのケジメだったと思う。
過去の曲を単に客寄せや、話題づくりとして利用しなくても、今の彼は、十分集客出来る。
ファンの希望する曲を歌うことで、彼は、ファンにもケジメを求めたのかもしれない。
過去の曲を過去の曲として葬り去る。
ソロ歌手ジェジュンとしての歩みに、過去の歌声も曲も必要ない。
そのケジメを示したかったのかもしれない。
「Glomorous Sky」「Good Morning Night」は、十二分に歌い込まれた曲であり、十二分過ぎるパフォーマンスだった。
ただ一言あるとすれば、こんなに充実した彼の歌声を聴いたのは久しぶりだった。
「Glomorous Sky」は、実は、とても楽しく活動的な曲であるにも関わらず、なぜか、今までいつもどこかに悲壮感が漂っていた。
それは、心から楽しむというよりは、心のどこかに不安を抱えた歌声だったのかもしれない。
明るく何の迷いもなく、晴れ渡った青空を見るような「Glomorous Sky」を私は初めて聴いた。
他の楽曲に関しては、別項目の記事になると思う。
今回の彼のライブで、歌手ジェジュンという人は、CDで聴くよりも、生で聴く方が圧倒的に上手い歌手なのだということを十分に示した。
多くの歌手の中でも、実際にコンサート会場に出かけ、生歌を聴いた方がいいという歌手は、必ず、長期間活動をしている。
歌手は、生歌がすべてだと私は思っている。
「誰にもカバーしてもらえないので、体調を気にするようになりました」
この彼の言葉が、今のソロ歌手ジェジュンのすべてだと思っている。
今の歌声、響き、伸び。
それらを守れるのは、彼自身しかいない。
歌手ジェジュンが、今の歌声を守り続けることを願っている。
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