この歌をジェジュンは、横アリの初日と名古屋の2日目に歌った。

今回のライブでは、この曲と中島美嘉がカバーしている「僕が死のうと思ったのは」の2曲を交互に歌うのかもしれない。
横アリの初日の感想は、歌い込み不足、という印象だった。それは、今から思えば、体調を崩し、下腹に力が入らない状況の中での精一杯の歌だったかもしれない。
力強さよりも印象に残ったのは、言葉の処理だった。
JPOPは、もともと言葉数が多いのが特徴だ。その中でも、蕾は、非常に言葉数が多い。
細かい音符の動きのひとつひとつの全てに言葉がついている。この処理は、日本人でも難しい。難曲である。その難しい部分を彼は流暢に処理していた。
早口で語るように歌う音節の語尾の処理は、見事だった。
概して、日本人が発音すれば、子音と母音の差がなく、言葉が不明瞭になる場合が多い。
これは、日本人は、日本語の文字を1文字で処理するからだ。
例えば、歌い出しの言葉、「涙零しても」の「涙」という言葉は、日本人にとっては、「なみだ」という3文字の捉え方になる。しかし、外国人にとっては、「NAMIDA」という6文字で、発音もNの子音とAの母音、Mの子音とIの母音、Dの子音とAの母音という3つの子音と3つの母音の組み合わせという捉え方になる。
これが、外国人が日本語の歌を歌うと、言葉が明確に聞こえる原因と考えられる。
ジェジュンの「蕾」もそういう印象が強かった。その為、言葉が明確に立ち、歌詞のひとつひとつが耳に届いていた。
言葉の処理が見事だという印象だった。
使われた歌声の色は、細く綺麗な色だった。
横浜では、歌い上げるというよりは、とつとつと語りかける、という歌作りになっていた。また、少し歌い込み不足だと感じたのは、下腹部に力が思うように入らない為、思うように歌い上げられない事からくる彼自身の戸惑いのようなものだと感じた。それは、名古屋の歌を聴いて、見事に楽曲を歌い上げてきた事から、あとで感じたことだった。
名古屋での歌唱は、この曲の持つスケールの大きさを見事に表現していた。
細く綺麗な語りかける歌声から、サビの部分では、しっかり芯のある声で、会場の隅々に響きが届いていた。サビをダイナミックにうたいあげることで、楽曲のスケールが非常に大きなものになったと言える。
ジェジュンの「蕾」は、繊細さと大胆さが見事に調和した歌だった。
彼は、どんなジャンルの曲でも、ジェジュン色に染め上げてくる。
それを実証したような歌声だった。