前記事に関連づけて書いていますので、前記事を読んでからお読み下さい。

5人の歌を歌って欲しいですか?
ジュンスが5人の歌を歌った日、ジェジュンが久しぶりにtwitterとFBを更新した。

 

5人時代をリアルタイムでほとんど知らない私は、彼のヴォーカルレビューを書くことで過去の彼の歌をデビュー当時から検証してきた。

 

「Begin」は、私の大好きな曲だった。そして彼にとっても大きな意味を持つ1曲だった。

 

それまでの彼は、主にリードボーカルを担当し、持って生まれた地声で歌を歌っていた。

「Begin」は彼が初めてメインボーカルとして歌った曲であり、今の彼の歌声の始まりの曲でもある。

この曲において、彼のパートは、何度も何度も繰り返し高音部のメロディーを奏でることが要求されている。

彼は、その部分を歌うために自然と喉の奧を大きく開けなければならなかった。

「日本語の歌を歌うとき、自分の元々持っている声より細い声で歌うことを要求された。その声を身につける為にとても苦しかった」と彼は話している。

 

「Begin」において、彼はまだ頭声の歌唱を完全に身につけたのではなかった。

何度も何度も繰り返される高音のメロディーを歌いきる為に、自然と声のポジションが頭声に近いものになっている。この曲を歌うことによって、彼は「声の出し方が何となくわかった」と言い、「歌い方がわかった」とインタビューで答えている。

 

この曲との出会いがなければ、その後の彼の歌い手としての発展もなかったに違いない。

5人の中で頭声で歌っているのは彼一人である。

 

POPS界において頭声で歌う歌手は殆どいないといっても過言ではない。頭声で歌うテクニックを身に付けたからこそ、彼は激しいロックでも長時間喉を痛めることなく歌いきることができるのだ。

その歌い方を身につける始まりの曲が「Begin」なのだ。それほど彼にとっては重要な曲であり、思い入れも大きい曲であるに違いない。そしてファンである私にとっても歌手ジェジュンを生み出した大切な曲なのだ。

 

確かに初期の彼の歌は、テクニック的にも発声的にも上手いとは言えない。しかし、その欠点を補って余りあるほどの「華」があった。

その魅力的な声は、徹底的に鍛えたら、どこまでも可能性を秘めた声に聞こえた。

彼に「もっと細い声にしたほうが日本人の好みになる」とアドバイスしたとおり、彼の声は日本人好みの響きと声の色を持つ。

 

その声と歌い方を身につける為に彼がどれほどの努力をしたのか… 歌をする人間なら、彼の初期の曲と中期の曲を聞いただけで血のにじむような努力を彼がしてきたかがわかるのだ。そして、なおかつ彼は、その声を身に付けたあとも進化し続けていた。

 

5人の東方神起の音楽は、グループ音楽として完全に完成されていた。

解散して4年。未だに多くの人が彼らのサウンズを好むのは、そのサウンズが他の追随を許さないものだからである。

 

ジュンスは、自分のパートだけを歌い、他のメンバーのパートはコーラスが流れたと聞いた。

そこまでして歌うことにどんな理由があったのだろうか。

 

「今まで歌えなかった5人の曲をジュンスが歌ったということは大きな意味を持つ。しっかりした後ろ盾がなければこんなふうに歌うことは出来ないのです」と話すファンがいる。

日本語を歌いたくても歌えないと言い、TAKUROに贈られた自分の曲ですら日本語の歌詞で歌うことが叶わなかったジェジュンと、「大きな後ろ盾」を得て5人の歌を歌うジュンスとの差はどこにあるのだろう。

 

同じグループに所属し、同じ事務所にいて、ここまで異なる条件でコンサートを開かされるどんな意味があるというのか教えてもらいたい。

 

ジェジュンは、5人の歌を歌いたかったのではない。日本語で歌いたかっただけなのだ。

それなのに許されず、5人の歌を歌うことができるようになったジュンスのコンサートまでに流れた時間は経った4ヶ月足らずだ。その4ヶ月の間に何が劇的に変わり、ジュンスのソロコンにタイミングを合わせるかのように歌えるようにした「大きな後ろ盾」が何であるのか私は知りたい。

 

百曲以上にもなる日本の楽曲を歌いたかったのは、ジュンスだけではなかったはずだ。

東方神起を脱退し、この4年間、同じように苦渋を舐めてきたメンバーと一緒に歌おうともせず、権利を得たからと言って、自分だけが歌おうとする姿勢は、自分さえ満足出来れば、日本へ来れるかどうかわからないメンバーの気持ちなどどうでもいいように見える。

それとも「僕が代表で日本で歌ってくるよ」とでも言ったのだろうか。

 

写真家パクノヘの「波の中に植えられた木が森を形成する」を一番好きだと答えたジェジュンに過去の曲にこだわる姿勢を見ることは出来ない。彼は、その歌声を努力して手に入れていったように前をしっかり見据えて、これから自分が歩く道筋を捜しているように見える。

 

そんな彼にとって、5人時代の曲を一人で歌ったジュンスの姿はどう映ったのだろうか。

 

慰安婦バッチをつけた行為、高陽市の広報大使を引き受けた行為。

これらは間違いなくジュンス自身の意思によるものだと私は感じている。

自分の政治的姿勢を明確にする行為をしておきながら、平気で日本人の前でコンサートを開き、日本の楽曲を歌う感覚を疑う。今までJYJ活動のことなど億尾にも触れず、自分のソロ活動に熱心に取り組んできた人間が、コンサートでJYJ、JYJと今更ながらに連呼する理由を知りたい。

 

ジュンスの今回の行為を容認することなど到底出来ない。

それは、5人の東方神起の音楽を愛した人全員の気持ちなのではないのか。

5人の曲を1人で歌うことにどんな意味があるというのだろう。

 

ジュンスの行為は、2人、3人と別れてしまってもなおかつ、5人時代の思い出だけは大切にしたいと思った人達の心を踏みにじる結果になったとしか言いようがない。

 

ジュンスは知っているのだろうか。

なぜ、未だに5人の東方神起の音楽が愛されているのか。

それは、2人でも3人でも超えられない。

5人で確立した音楽の世界だからだ。

 

歌える権利とその権利を行使するかどうかは全く別の問題だ。

 

メンバー5人は、理由はどうであれ、結果的には、自分達で5人の東方神起の音楽の世界を壊したのだ。

 

楽曲は、歌手のものであって、歌手だけのものではない。

その歌手としての原点をジュンスは忘れ去っているように思える。